高慢と偏見

お気持ち表明と知識の開陳

惰性とプライド

久方ぶりの更新になる。

先日、ターム末試験が終わった。例年の結果を鑑みると自分の希望する学科に進学するためには十分な成績を一年次で残しているので、今回の試験では敢えて努力をする必要はなかった。試験科目は物性化学と生命科学であったが、いずれも単位の取得という観点から見れば何の困難もなかった(教員が"当たり"だったというのが大きい)。しかし僕は少なくともこれまでと同程度には試験勉強をしたし、試験前の精神的負担もこれまでと同程度だった。僕はこの現象を他人に説明する際、「惰性とプライド」という言葉を使った。「習慣と自己保身」と言ってもいいかもしれない。習慣というのは恐ろしいもので、それまでは常識の範囲外だったことも一度習慣と化してしまえば逆にその状態から抜け出すことに恐怖を感じるようになる。否、その状態から抜け出すという発想が生まれることすらないかもしれない。したがって、僕が試験勉強をした理由の一つは、まさに「それまで僕は試験勉強をしていたから」だというのが僕の自己分析である。もう一つの理由は、ただ単に「他人に負けたくないから」である。これについては注意が必要で、僕は何事に関しても負けず嫌いというわけではない。何ら関心のない分野や領域で他人に敗北を喫したとしても、僕は歯牙にも掛けないだろう。僕が試験において他人に負けたくないのは、自分が"そういう人間"であると考えているからである。有り体に言えば、僕は大学に入ってから"ある程度"成績がよかったのだ。部活やサークルに入らず、ロクにアルバイトもしていない僕にとっては、過剰なまでの自意識とプライドが渦巻くキャンパスにおいて自分を支えてくれるのはそういう一欠片の自信だった。しかし、それがいつか何かの役に立つわけではないことは明らかであったし、それに僕の成績は"ある程度"いいだけでしかなかった。僕は初めからこれらのことに気がついていた。前者については基本的に考えないことにしている。自分がやっていることの意味に疑念を抱き始めたら何もできない。本当に何もできないのである。その場合は生を放棄するしか道はなくなるが、生憎僕にはその勇気がない。だから何も考えないようにしているのだ。問題は後者である。勉学において僕より優れた人間は無数にいるのだ。それだけではない。その中には勉学以外においても僕より優れている人間がたくさんいるだろう。僕の「完全上位互換」がいたとしても不思議ではない。いや、いるのだ。既にいるのである。その意味で僕に存在価値はないのだ。少なくともその意味においては、僕がこの世界にいる理由はないのである。

これには様々な形での反論が可能であろう。しかし、僕が僕自身をそのように捉えているという事実によって、それらの反論は全て僕にとって無効になる(反論をする人間にとっては有効である)。僕の生を規定するのは僕自身でしか有り得ず、僕にとってそのようであるものは、他者にとっていかようであろうとも、僕にとってはそのようでしか有り得ない。そしてそれは他者にとっても同じである。僕は他者の中にあるものに指一本触れることができない。それを鑑賞することや指を触れようとすることはできるが、指を触れることは決してできないのだ。

そして、僕の保身はさらに卑劣である。僕は"本気"を出していないのだ。僕は自分の全てを出し切った上で他人に敗北し、自分には存在価値がないということを知ることを恐れているが故に、文字通り"全力"の努力をしない。努力という行為が尊いのは、何かに打ち込むことそれ自体が美徳だからではなく、自分の望む結果が出なかった場合に、自分は生きる価値のない人間であるということを他ならぬ自分自身によって宣告される危険性を常に孕んでいるからである。外なる自分を守るように見せかけ、実は内なる自分を守ることしか眼中にない僕がなぜこの世界に存在することを許されてしまっているのだろうか?

ともかく事は終わった。後には何も残らなかった。空虚すらも残らなかった。そしてその後の48時間を僕はほとんど何もせずに過ごした。のっぺりとした世界の中を時間は一様に過ぎていった。コップの中を水が満たしているように、僕の頭の中は何物かに支配されていた。それが何なのかは分からない。

これからの約2ヶ月間は、長期休暇を除けば恐らく4年間の大学生活の中で最も他者から押し付けられた「やらなければいけないこと」が少ない時期であろう。その中で僕はどれだけ自分自身と向き合うことができるか?僕はまず頭の中の靄のようなものを取り除くことから始めなければならない。

存在という病

窓に映った顔を見る。醜い。圧倒的に醜い。世界中のあらゆる顔という顔の中から最も気持ち悪いものを抜き出したかのようだ。僕という存在に想いを馳せる。それは卑劣な存在だ。世界中のどの存在よりも卑劣な存在だった。顔が醜いから卑劣なのでも立ち振る舞いが醜いから卑劣なのでもない。初めから、完全に、卑劣だった。僕という存在は卑劣だったのだ。
或るものは存在していて、或るものは存在していない。これは嘘だ。全てのものは存在している。なぜなら、存在していないものは存在していないからだ。
僕の目の前にはペットボトルがあり、本がある。目の前にペットボトルが存在していて、そして本が存在しているのだ。不愉快極まりない存在である。もちろんペットボトルはお茶を収容するという重要な役割を果たしているし、本は面白い。それでも不愉快なのだ。ペットボトルや本に限らない。全て不愉快なのである。リュックサックも窓も座席も携帯電話もカレーライスもラーメンも。隣の人間も、自分自身も。存在しているものは、存在しているというまさにその理由によって、不愉快である。存在していないものは不愉快ではない。なぜなら存在していないからだ。しかし存在しないものは存在しない。なぜなら存在しないものは存在しないからだ。
特に人間は卑劣な存在だ。今、僕の隣には人間が存在している。具体的に言うと僕は新幹線の座席に座っていて、その隣の座席に40代の男性が座っている。もしかしたら30代かもしれないし、あるいは50代かもしれない。しかし10代の男性でも30代の女性でもないことは確かだった。なぜ確かなのかは分からないが、少なくとも僕にはそれが確かなことのように思えた。とにかく僕の隣には人間が座っていた。この人間には名前がある。もしかしたらないかもしれないが、多分あるだろう。山田太郎かもしれないし、John Smithかもしれない。そのいずれとも違うかもしれない。とにかく人間が存在しているのである。人間が存在している!
どんな名前なのか、何の仕事をしているのか、今までどういう人生を送ってきたのかも分からない人間が無数に存在している。存在そのものに対する認識には反省が必要かもしれないが、差し当たり存在していると考えていいだろう。何者か分からない人間が存在している。この事実に直面したとき僕は立ち竦みそうになる。<これ>は一体何なのだ?何者なのかが全く分からない何者かが存在している。これは恐怖そのものである。もちろん世の中のあらゆる物事のうち僕に「分かる」ものなどほんの僅かである。それでもこれは驚くべき事実ではないだろうか?「分からない」という事実に対する戦慄はそこら中に、それも人間の中に、そびえ立っているのだ!
じゃあ、僕は何者なのか?
僕は僕だ。自分は自分である。じゃあその<自分>とは何なのか?お前は何者なのか?僕は何者なのだ?
石ころにしろ人間にしろ、結局のところは原子や分子、あるいはそれらを形作る素粒子の集合体である。しかし人間の存在は石ころの存在よりも卑劣であり、僕という存在は僕の隣にいる人間の存在よりも卑劣である。人間が石ころよりも卑劣なのはそれが人間だからであり、僕が卑劣なのはそれが僕だからだ。
僕は何者なのか?この問いが頭の中で渦巻いている。答えは出ない。ただ無力感と絶望が僕を襲うのみである。悪寒が走る。僕は僕自身でありながら、僕が何者なのか分からない。
僕の名前は僕ではないし、僕の経歴は僕ではないし、僕の感性は僕ではない。僕に関する全てのものを集めたものの中にも僕自身に合致するものはない。見果てぬ僕自身が存在している。それがなくなったとき、それはすなわち死を意味する。
卑劣で、空っぽで、何もなくて、何者なのか分からない、本当に分からない、<何者か>でしかない何者か。他のあらゆるものと同じように、存在するより存在しない方がいいもの。存在するものが存在するということによって抱えた病、その一種が僕なのかもしれない。

 

※謝罪 前回の記事の最後に「次回は新歓期の駒場に蔓延る気持ち悪さについて書く」と書きましたが書きませんでした。ごめんなさい。

二年生になりました

新年度が始まって、二年生になった。これがエイプリルフールの嘘だったらいいのに。いや、この生が嘘だったらいいのに。

この一年間、僕は意味のあることをどれくらいしてきただろうか?考えてみると何に意味があって何に意味がないかなんてことは分からないけど、取り敢えず勉強に絞る。一年前は所謂ε-δ論法に基づいた極限の定義もハミルトニアンも知らなかったことを考えると、少しは成長しているような気がするが、二年前はベンゼンを知らなかったし、三年前は三角関数微分を知らなかったし、四年前はニュートン運動方程式も二次関数も知らなかった。だから、少しずつ僕は成長しているのかもしれない。結局のところ、少なくとも勉強に関しては、為すべきことを為す以外の道はないのだろう。

しかしながら、あるときふと気を抜くと、<この生には意味があるのか>という問いが頭をよぎる。この生には意味があるのか?ないのだったら、こんなことをして何になるのか?

果たして、この生には意味があるのか?

ない。

たとえ僕がどんなことを成し遂げて歴史に名を刻もうと、やがて人類とその文明は滅びるのだ。僕を愛し、僕を記憶している人間が仮にいたとしても、いずれいなくなるのだ。僕の愛したものを消えてなくなるのだ。

僕が死んだら何になる?何にもならない。無である。いや、無すらないかもしれない。そもそも「ある」とは何なのか、それは置いておくとしても、僕が死んだ後には僕はいなくなるのだから、僕は何事をも知ることができず、何もないのと同じである。要するに、何もないのだ。僕は僕の意志とは無関係にこの世界に産み落とされ、やがて(自殺しない限り)僕の意志とは無関係に死んでいく。いつ死ぬかは分からないが、いつか死ぬ。そしてその後には何も残らないのである。

だから、この生には意味がない。念のために断っておくと、「この生」というのは他ならないこの僕自身の生という意味であり、僕以外の人間その他の動植物の生に意味があるか否かとは関係ない。僕は僕以外の生には本質的には関心がない。だから僕以外の生に意味があるかどうかは知らないが、少なくとも僕の生には意味がない。じゃあ、どうやって生きろというのだ!それを考える必要がある。本には答えが書いていない。本に書いてある答えはその本の著者にとってのものであり、僕にとってのものではない。だから、考えないといけないのだ。

ある種の人々にとってはこの問いは些末なものかもしれない。そんなものは机上の空論であり、明日の仕事の準備をした方がよっぽどいい、という人もいるだろう。でも、僕にとってその人たちは、最も根源的な問いから目を背けて惰性の元で生を終了させる人間としか映らない。そんなものは逃げでしかない。

しかし、現実的に考えると、その問いに対する答えを探求することは、社会生活を送る上での阻害にしかならない。そのことについては賛同する。生の意味を探求するのに最も適した方法は、狭義の哲学者になることだと思われるが、僕には哲学者になる勇気も能力もない。今のところ僕が志しているのは自然科学、特に物理学であるが、実はこれも「宇宙の始まりを解明したい!」「物質の根源を解明したい!」という純粋な動機ではなく、「自分の生の意味、あるいはそれに最も近いものについて知りたいが、それを探求するのは現実的ではないため、自分という存在の物質的な根源(宇宙、素粒子)を解明したい」というある意味では不純な動機から来ているのかもしれない(ただしこれは僕が物理学で食べていけるかどうかとは別である)。「かもしれない」と付けたのは、自分の本当の気持ちなど分からないからである。でも多分、僕は何かから逃げている。

いずれにせよ、本を読むことが必要である。つまり、自分の生の何たるかを考える上での基礎となる知識も、実際的な勉強をする際の知識も、本を読むことで得られるし、恐らく本を読むことによってしか得られない。前回の記事でも書いたように、100冊読むことを目標にする。あまり数に拘りすぎるのもよくないが、目標を設定しておくと目安になると考えての数値である。もし一年後もこのブログが続いていれば、読んだ本とその一部に対する感想を列挙するのも面白いかと思う。

 

まとめ

今年度の目標

・自分の生の意味について考える!

・本を100冊読む!

 

 

次回は新歓期の駒場に蔓延る気持ち悪さについて書きます。

スマホを捨てて、本を読もう

一時的にTwitterのアカウントを消していた。理由は色々とあるが、Twitterをすることで不快な気持ちになることが多いというのが一番大きい。100人を超えるフォロワーの中で(現実での関わりがある/ないに拘わらず)親しい人間というのはごく一部であって、その他はいわばどうでもいい人間の運営しているアカウントである。普段から僕のツイートやブログの記事を見てくれている人(先ほどから人や人間という言葉を使っている。ツイートアクティビティのインプレッションやブログのアクセス解析でカウントされるのはあくまで閲覧したアカウントの数なので人かどうか分からないが、人である可能性が高いので取り敢えず人としておく)に対してどうでもいいと言うのは大変失礼ではあるのだが、実際のところどうでもいいので仕方ない。それにその人たちの多くにとってきっと僕もどうでもいいアカウント、あるいは人間の一つ(一人)に過ぎないのだからおあいこだろう。そういうどうでもいい人間のあれこれの情報を見るのはしんどい。気を遣いたくもない。所謂イキリや自慢も度々見かける。そういうツイートを見て優れた他者と劣った自分を比較し、自己嫌悪に陥る。あらゆるツイートは自己承認欲求と自己顕示欲を満たすために投稿されると言っても過言ではないので、Twitterが(少なくとも僕にとって)そういう空間になるのはある意味では致し方ないことではある。しかしそういった批判(と言うよりも非難)を頭の中ですると必ずそれは自己矛盾を孕んでしまう。すなわちブーメランである。その非難は内省的な態度を他ならぬ僕自身に要請するが、僕は内省も反省もしたくない。なぜならTwitterは自己承認欲求を満たすための空間だからである。つまり、僕が不快感を抱いている人たちは何も悪くないのだ。従って、この不快感を回避するための最も合理的な方法はTwitterをやめることである。一口にやめると言ってもアプリがあると開いてしまうし、アプリをアンインストールしてもブラウザからログインしてしまう。何ならスマホを家に置いて大学に行っても図書館のPCから開いてしまう。つまるところ依存症なのだ。一旦アカウントを消すと、(復活させることは容易であるが)「一旦消したものを復活させる」という行為に何がしかの面倒な手続きのようなものを感じて三日ぐらいは離れることができる。それでも三日である。なぜ僕はTwitterをやめられないのだろうか?

恐らくそれはTwitterをすることで孤独感が癒されるからだろう。真面目に数えたわけではないが、僕が春休みに一日に話す人間の数は平均すると0.7人ぐらいだ。今日(3/24)は一人の人間とも話さなかった。しかしながら僕は元来弱い人間である。人間関係を疎ましく思いながら、一人で生きていくことができないのだ。そういうわけで、孤独に喘いだ僕はインターネットのインスタントな人間関係に手を伸ばす。この馬鹿馬鹿しいインターネットと僕の関係がいつまで続くのかは分からない。死ぬまでではないことを祈るばかりである。明日の僕に期待したい。

 

本を読みたい、と思う。いや、本は読むものであるし、読むべきでもあるし、読まなければいけないし、読みたいという思いはずっとあるのだが、読めていないのだ。上に述べたこととも関連しているが、僕はインターネットに氾濫する手軽でつまらない情報ばかり得てしまっている。もちろんこの情報の中には役に立つものもあるのだが、大抵はゴミである。僕がそのゴミに縋り付いているのは正にそれが手軽であるからであり、僕はこの現状を反省せざるを得ない。僕は確固たる知識の牙城に恐れ戦き、そこに現れたtrivialな情報に飛びついているのである。こうして僕は確固たる知識の化身であるところの本を読むことにした。本には宝石が詰まっている。この1年間の無残な読書量を反省した僕は、2年生の間に100冊の本を読むという目標を立てた。

早速生協書籍部に向かう。積ん読はいくらでもあるのだが、こういうときは新しく買った方が気分が乗る。買ったのは次の3冊だ。

斎藤兆史『教養の力 東大駒場で学ぶこと』(集英社新書)

川上未映子『あこがれ』(新潮社)

白井智之『少女を殺す100の方法』(光文社)

取り敢えず一冊目だけ読んだ。結構薄くて数時間で読めた。内容は別に薄くはないが濃くもなかった。東大駒場で学ぶことに関して書かれているわけではないのでサブタイトルに東大駒場という文字が入っていることには違和感を抱いた。

一応自分自身「教養」という名を冠する学部に所属しているだけあって、教養の何たるかには興味がある。これまでにも二冊ぐらいタイトルに「教養」の二文字が入った本を読んだことがあるが、やはり「教養とは何か」という問いに簡潔明瞭な答えを出すのは難しいと思う。少なくとも教養学部に所属している間に教養が何か分かる気はしない。が、この問いを心の隅に持ちつつ目の前の山を一つずつ崩していくことが答えに辿り着く唯一の方法ではないか、とも思う。今の僕にできるのはそれだけだ。

この本に書かれていたことで特に印象深かったのは、「雑多な情報が錯綜している現代社会において何らかの判断を下す必要が生じたとき、その判断の基準となるのはそれまでに自分が見てきたものである。<本物>を見た経験があれば、それと比較して目の前のものが<本物>であるかどうかが判断できる」ということだ。ランナーの足が速いか否かを確かめたかったらウサイン・ボルトと比べればいい。そして本の世界のウサイン・ボルトは古典である。

影響されやすい僕は早速今日(3/25)古本屋で『論語』とトルストイを買った。僕も<本物>になりたいな…

因みに上で挙げた購入した本のうち残りの二冊はともに小説である。川上未映子さんは僕が大好きな作家の一人で、内容もさることながら文が本当に綺麗だ。彼女の感性をまるごと日本語にしたかのような味わい深い文を楽しむことができる。今までにも何冊か読んだことがあるのだが活動を追っているわけではなく、今回はたまたま新作と思しきものを見かけたので購入した。もう一つの作品はタイトルとあらすじ、それから表紙が気に入って購入した。ややスリリングだが、新規開拓も面白い。上にも述べたように来年度の目標は100冊の本を読むことである。どんな出会いがあるのか、今から楽しみである。

 

さて、春休みも残すところ10日ほどとなった。振り返るとこの2ヶ月間で色々な本(理学書)を読んだが、序盤を読んだだけのものが多く、一冊読み通せたものはほとんどない。あるいは理学書はそういうものなのかもしれない。そもそも小説や新書と違って一ページを読むのに何分、何十分もかかるし、細かい議論を隅々まで理解するには膨大な労力と時間が必要だ。だからこそ、歯ごたえのある理学書を読み通すことは大きな自信になり得る。明日の僕はどれくらい山を崩せるだろうか?

皆さんも。

スマホを捨てて、本を読もう。

 

※追記:最近は電子書籍という媒体が存在しているのでスマホ(などの電子機器)を使って本を読むことが可能である。それを考慮して上の「スマホを捨てて」という表現はあくまで比喩(の一種)であると捉えることもできるし、実際にスマホを捨てることもできる。

勉強という虚妄

※この記事の多くを書いたのは3/6の夜です

 

今日は大学の図書館で勉強をした。ちなみに昨日も大学の図書館で勉強をしたし、一昨日も大学の図書館で勉強をした。一つはっきりしていることがあって、僕は家で勉強ができない。隣人の声がうるさいというのもあるのだが(これは音楽を聴けば何とかなる)、すぐに休憩と称して布団でゴロゴロしてしまうのだ。人の目があるのとないのとでは大違いである。いずれにせよ休憩は必要であるからこれは仕方ない気もするのだが、もう一つの敵はスマートフォンである。この敵は図書館にいても絶えず襲ってくる。スマートフォンが現代の生活に必要不可欠なのは言うまでもないが、これは僕に多くのくだらない情報を提供すると同時に多大なる時間を奪っていく。これも僕の使い方が悪いせいだとは思うしこんなものは早く捨ててしまいたいのだが、やはり生活には必要である。スマートフォンを家に置いて図書館に行くのがベストなのだが、イヤホンから音を漏らしていたりヒソヒソ話している人間が図書館にいるとあまりに不快でとても勉強どころではなくなるので、やはり音楽を聴く用にスマートフォンは必要である(耳栓は息が苦しくなるから好きではない)。iPhoneを捨ててiPodWALKMANを買うべきだろうか?インターネットに支配される自分が何とも情けない。

で、このような理由から僕は用事がない日は大学の図書館に行くことにしているのだが、特に長期休暇中は"勉強すること自体"について悩むことも多い。過去の記事で少し触れたように自分は学問の世界では評価され得ないと思っていたこともあったが、最近は評価されるとかされないとかそういうことは抜きにして目の前の学びたいことを学ぼうと思うようになってきた。ある意味では現実逃避と言えなくもない気はするけど、当面はこんな感じで勉強していけたらいいなとは思う。ここで問題になってくるのは、勉強したい(orしなければいけない)ことがあまりにも多いということだ。学問は成果を積み上げるものであるし、特に近年の科学技術の目覚ましい発展を考慮すると(僕は理科系の学生なので学問について語る際は科学を念頭に置いていることが多い)、研究の最前線が先鋭化、あるいは専門化していくこと、それにつれて学生の間に学ぶべきことが増えることは致し方ないとは思う。それらを容易に消化・吸収する人もいる。が、実際問題として、なかなかしんどい。読むべき本は無限にあるのだが、時間は当然有限である。物理系に進むとは思うのだが、数学の本も読みたい(あるいは読まなければいけない)し、語学も結構好きだし、文化についても知りたい。背伸びして哲学書だって読みたい。しかし時間は限られているのである。

いつだったか、本や映画を指して「天才たちが残した叡智の結晶を数千円そこらで味わうことができて、しかもそれらは一回の人生ではとても消費しきれないほどたくさんある」と語っていたツイートを見た記憶がある。それについては完全に同意するし、昔から思っていたことでもある(なぜ多くの文庫本が1000円未満で手に入るのか、今でも納得がいかない)のだが、僕は「一回の人生でそれらを消費しきれない」ということに一抹の淋しさを感じる。上に書いた勉強すること自体に関する悩みとはこのことだ。僕はこの世界の全てを知ることは"決して"できないのである。それは決定されたことであり、抗うことはできない。しかし目の前に立ち向かうべき対象が存在していると、立ち向かいたくなる。知らないものがあると、知りたくなる。持っていないものがあると、手に入れたくなる。この欲求、あるいは未知なるものに立ち向かう精神が僕を支え続けているのかもしれない。

先日のこと。詳細は省くが、知らない人間と立ち話をさせられて、「この時期(春休みを指す)に大学来て何やってるの?」と訊かれた。「図書館で勉強してます」と正直に答えた僕に対して彼は「偉いね。この大学の人間は『俺勉強しないし〜』みたいな感じの人が多いんだよね。君みたいに勉強しているとはっきり言えるのは立派だ」と言った。

僕は本当に「勉強をしている」と胸を張って言えるだろうか?自信はない。自分の勉強量が十分だとは決して言えないし、鬼のように集中しているわけでもない。自分の勉強法が適切なのか分からないし、身についているかどうかも分からない。そもそもどういう状態を以って「勉強をしている」と言えるのかも分からない。僕がしているのは(もちろんやっている分野によって変わってくるが)、本に書いてある文字や数式を読むこと、それらの意味するところを理解すること、必要であれば手を動かして計算を実行すること、さらに必要であれば記憶するべきことを記憶することである。多くの人間は僕が本を読みながら紙に何かを書いていたら「勉強をしている」と判断するのだろうが、僕にとってはそれは勉強のような何か、あるいは勉強と呼ばれている何かでしかない。しかし、時間は有限であるから、僕はどういう状態を以って勉強と言えるのかを考えず、勉強と呼ばれている行為を繰り返すのである。もしかすると僕は勉強の何たるかを知ることなく一生を終えるのかもしれない。だが、勉強の何たるかを知る人間がどのくらいいるのだろう?世界に名を馳せた学者でも自信を持って答えられる人はあまりいない気がするのだが、これは僕の驕り(?)だろうか?

 

 

話は変わる。先日、僕の高校の同級生の女の子が僕に笑顔を振りまいたときに感じた気持ち悪さを上手く言語化できなかったことについて、記事を書いた。

 

ph-39.hatenablog.com

 

この記事にある方がコメント寄せてくださった。要約すると、「思考や感情を言語化して既存の枠組みに収めることは、そこに収まりきらなかったものを捨象することでもある。言語は思考を他者と共有する大きな手段ではあるが、それが全てではない」といった感じだ。これは完全に正しいと思う。言語以外で感情を他者と共有する手段として芸術や音楽といった例も挙げてくださった。しかし僕は絵を描くことも曲を作ることもできない。僕が唯一できるのは、言葉を紡ぐことである。それに、言語という枠に収まらなかった感情は確かに捨象されるのだが、言語化されなかった感情を記憶に留めておくのも難しいのである。

感情を言語化することにどれくらい意味があるのだろう?

確か東大の英語の過去問か何かだったと思うのだが、「頭の中にあるものを全て言葉で言い表すことはできない。我々が言葉にできるのはそのごく一部だけである」というようなことが書かれた文章を読んだことがある。これまたその通りである。

しかし、今この一瞬一瞬に浮かんでは消え、消えては浮かんでくる曖昧な思考や感情たちは、僕が言語化という作業をすることによってのみ、身体を持つことができる。僕という矮小な存在の中に生まれた愛しい思考や感情を、僕は死なせたくない。たとえそれが全体の0.01%であったとしても、僕は僕の感情を言葉にすることには自分自身にとって意義があると信じている。

僕自身という虚妄

先月の25日から28日まで合宿型のセミナーに参加していた。今回は広島で開催されたので実家から行った。班に分かれて教科書を読んだり発表をしたりするのだが、僕は量子力学の勉強がしたかったから量子力学班を選んだ。教科書はJ.J.サクライだ。完全に初学の人や普段は数学しかしていない人など色々な人がいる班だったが、とても有意義なセミナーだったと思う。ブラ・ケット記法にも慣れてきた。個人的には1次元調和振動子の問題で消滅演算子と生成演算子を定義して鮮やかにエネルギー固有値を求める方法(考えたのはDirac?)が好きだ。あんまり時間は取れなかったが数学の話も聞くことができて大変楽しかった。まあ総括すると今後も物理や数学を頑張っていこうと思った。

帰りに広島駅の近くでお好み焼きを食べた。とても美味しかった。昼の3時なのにほぼ満席で驚いた。

で、ここからはあんまり楽しい話ではないのだが、僕は初対面の人間と話すのが苦手というか、そもそもよく知らない人間に興味を持つのが苦手だということが改めて分かった。これは僕と話してくれた人について何かを否定するものではない。問題は僕自身にある。僕は表面的なコミュニケーションが嫌いで、相手と真剣に向き合うためには肩書きとか口から出た適当な言葉とかではなく、その人の思想や思考が依拠しているものを知る必要があると思う。こんなことを言っているから友達が少ないのかもしれない。そして大人になったら多くの人がそうしているように興味のない人間にも媚び諂わなければいけないという予感もある。しかも社会でより高く評価されるのは一人の他者あるいは自分自身を深く理解しようとした人間ではなく、多くの人間と表層的なコミュニケーションを取った人間らしい。まあその人たちのコミュニケーションが実際のところどういったものなのかは分からなくて、表層的ではないかもしれないし、あるいは僕と違って高い求心力を持っているのかもしれないが、弱い人間であるところの僕は仮想敵を作って嫉妬しないと生きていけない気がする。

 

色々なことを感じた4日間だったが、無事に家に帰ることができてその後は15時間ぐらい寝た。睡眠って大事。

 

昨日は昼から姫路に行って高校生の頃によく行った場所に行った。3年間通いつめたジュンク堂は今もあの時のジュンク堂のままで、ちょっと嬉しい気分になった。地味に理工書の品揃えがいいのもポイントが高い。

商店街を歩いていたら高3のときに同じクラスだった女の子に会った。これは個人的なアレであんまり意味のある補足ではないが、可愛い子が多いと言われていたクラスで3番目に可愛いと言われていた子だ。カーストみたいなものはあまり意識したことがなかったが、そういうものがあるとしたら上位に位置していたのは間違いないと思う。で、その子は髪を染めていて、遠目にも分かるくらい化粧をしていて、着飾っていて。そして男と手を組んでいた。僕はその子が好きだったわけでもそれ以外の理由で思い入れがあったわけでもなく、高校を卒業してから昨日まで多分その子のことを考えたこともなかったが、何か得体の知れない不快感、あるいは不安のようなものを感じた。彼女は笑顔で手を振ってくれた。僕は会釈することしかできなかった。目を合わせることもせずに慌てて立ち去った。

僕はダメな人間だと思った。絶望的にダメな人間だと思った。その二人を見て得体の知れない気持ち悪さを感じたこと。その気持ち悪さは人間自体が持つもののように感じられたこと。そしてその二人を羨ましいと思ってしまったこと。

まあこれもその人たちは何も悪くなく、好きな人同士で仲良く歩いていただけなのだから、悪いのは僕自身、具体的に言うと僕の認知の仕方や思考だ。

でも、彼女が僕に見せた笑顔は間違いなく虚妄だった。

彼女は何に対して手を振っていたのか?

僕は彼女にとって何だったのか?

色々考えたことはあるが、文字に起こすとあまりにも気持ち悪くなりそうなのでやめておく。そこまで自己開示をする理由もない。自己開示をするための手段としてブログを書いているのに中途半端なところでやめてしまって結局何がしたいんだかという感じだが、僕が何をしたいのか僕自身にも分からない。どうやって生きていけばいいのかも分からない。こんなことを言っておきながら自分のことを少しでも肯定してくれる人がいるとすぐに舞い上がってしまうようなどうしようもない人間で、本当に悲しい限りだ。でもどうしたらいいのか分からない。何をしたらいいのか分からない。

早く世界から消えてしまいたい。

上手く感情を言語化することができない。

あのどうしようもない笑顔を見たときに感じたものはこんなに生易しい言葉で表せるものではなかった。

世界を作っているものが言語なら、僕を僕たらしめているものもまた言語だろう。

この感情をどうしたらいいのだろうか?

メリュー

惰性で更新します。

今日は昼に起きて漫画を読んで焼肉を食べたら一日が終わりました。漫画の中の登場人物はかっこいいことを言っていて、僕もそれを実践したいとは思うけど、それはやっぱりフィクションなのであって、実践するのは難しいという当たり前の感想を抱きました。もうすぐで春休みが折り返しになるわけですが、皆さんはいかがお過ごしでしょうか?2Sセメスターの授業の少なさを考えると、1Aセメスターの試験が終わってから2Aセメスターが始まるまでの8ヶ月間を一つの大きな休みと考えることができて、現在1ヶ月が終わったところなんですが、このままだと結局何もせずに8ヶ月が過ぎ、そのまま気づいたら歳をとっていた、みたいなことになりそうでなかなか怖いです。が、自分が実際にやったことを後から振り返って、「たくさんある選択肢の中からこれを選んだということはこれが自分がやりたかったことなんだ」と結論することもできるわけで、そういう立場に立てば過去の自分を全て肯定できる気もします。でもインターネット依存症の自分はあんまり肯定したくないかな…最近気づいたんですが、自分は人間と一緒にいるときには一緒にいないときよりもインターネットをしようとは思わない傾向があるみたいです。ということは多分インターネット(というかTwitter)で孤独感とか寂しさとかを紛らわせようとしているんだと思います。寂しさを感じるのは仕方がない気もしますが、出来れば勉強とかもうちょっとマシな方法で紛らわせられたらいいですね。

 

久しぶりに田舎にいると、割と色々なものが見えてきます。と言ってもあまり外には出ているわけではないし、人に会っているわけでもないですが。昨日の夕方に自転車に乗って町を回ってみたのですが、歩いている人をほとんど見かけませんでした。少し哀しい気持ちになる一方で、それは僕という人間に与えられたとてつもなく正しい結果であるような気もしました。

家に帰ってきてから、僕の中学校の同級生だった女の子が近所のコンビニでアルバイトをしているという話を母親から聞きました。特別に思い入れのある子ではないのですが、わりかしボーイッシュでありながら特に小学校のときにはクラスの男子みんなから好かれていた女の子で、その子が寂れた町の寂れたコンビニでアルバイトをしているところを想像するとまた少しだけ哀しい気持ちになりました。ある寂れた町で生まれた人間が地元の小学校と中学校を経て高校、大学へと進み、どこかの誰かと結婚して(ある場合には)その町でそのまま歳をとって死んでいく。これはまあ当たり前と言えば当たり前のことなんですが、何とも面白くない気分になりました。

そしてまた、今地上にいる人間の(適当に見積もって)9割ぐらいが(自信を持って「勉強をしている」とは言えないのですが)自分が今勉強している物理学とか数学の理論を全く知らずに死んでいくというのは、何だか多くの人間が自分への理解を拒んでいるように感じられて、少し嫌な気持ちになりました。でも僕も他人や他人のやっていることを理解しようとはしていないのでおあいこです。

国道を走る車のライトが灯籠のように見えました。そして、何かの亡霊のようにも見えました。

 

最近ブログの(全体の方の)タイトルを「自己実現の手段」から「高慢と偏見」に変更しました。有名な文学作品から取った割にはそれに見合うだけの文章を書くことができず、申し訳ない気持ちになります。

 

明日から4日間広島に行くので次はその感想でも書けたらいいなと思っています。